聞かなければYes、聞けばNo

飛躍や決定事項などにおいて重要な命令や決定を行わなければならい。それが苦渋の選択だったとか、そんな時に人はどうするのか?
大体は「ルール破り」じゃないだろうか?
学校や会社あるいは社会には「規則」「ルール」というものがある。当たり前なんだが。。。。
良い例が思いつかないが次のようなやりとり考えてみよう。

「これやって良いですか?」(注:当然「これ」っていうのは規則ではやっちゃいけない事を指す)

聞かれたほうはと言うと、
「駄目!!」(注:としか良いようが無い)

当然だ。だが聞き手は「やらなければ」と思ったからそう考えたたはずである。
どうしても「やりたい」なら聞いては行けない。では何で聞くのだろうか?
それは、ばれた時あるいは失敗した時に「やって良いって言われました」(許可をもらった)という免罪符を入手できるからだろう。これも聞き手としては当然だろうが聞いた相手が馬鹿でなければ許可は出ない。要は責任回避だろう(必要な時も当然あるけど)
そんな時にこそ「自己責任」というリスクを持った武器を使うべきじゃ無いだろうか。全ての責任を自分が負うのである。黙ってやれば良いのだ。

ただ、世の中には(学校、会社も含めて)この自己責任でも許されないルールは存在する。この事は肝に銘じておかなければならない。この判断がつかないなら「型破り」は「無責任」の一言に尽きる。

田舎道でおしっこをしたくなった。でも立ちションは正確に言えば「軽犯罪」だろう。
ところがである、通りかかったお巡りさんに「良い?」って聞けば「駄目」って言うだろう。
黙って「やれば良い」のだ。
この場合の自己責任はお巡りさんに見つかってしまうとかなんだろうけどむしろ誰かに見られないかがウエイトとして大きいんだろうけど。まあこれがリスクかな。

ところが、これが誰かの家の玄関とかだとやっぱり一線を超えている。つまり「自己責任でも許されないルール破り」だろう。

要は「モラル」って事だろう。
「規則」「ルール」って言うのは一つの枠なんだろうけどその枠線の周囲はやんわりとぼやけてる部分もあるという事だろう。そうじゃなかったら犯罪などの裁判なんかはコンピュータで判断してしまえば良いだけで人が介在する必要はないと思う。
「人間って良いな」このばやーとした事をちゃんと(理解しようと思えば)理解してるから。

※この話の続編として「普通」とか「規則が多い」っていうネタに関しても書いて見たいと思う。