人の心

人には心がある。しかし、この心が現実と乖離した無理を押し付けていると感じる事がある。
幸い私の家系はそういう点ではハッキリしている。
しかし、時として世間は不当な評価をする。

一つは「」についての事。
私の家系(特に母方)では常に「生きている人間が大事だ」という。
つまり、死んだらそれはもう抜け殻であって死後に大金を使うなという家訓だ。
だから、葬儀屋が用意する殆どのオプションは堂々と「要らない」と申し出る。
お坊さんを呼んで(ハッキリ言えば)お金を包んで渡す等しない。

そうすると「普通はそんな事はしないですよ」、「罰当たりですよ」と。

冷静になって考えればとっても馬鹿げている。
そう、冷静になって考えれば彼から商売でやっている。
けっして我々の心の問題など(そうは言ってはいるが)無いに等しい。
※これは言い過ぎかもしれない、、、が。


私は言いたい。
あなたはそんなお金を使う余裕があるなら
「なぜ、生きている間にその大金を使ってあげなかったのか?」と。

親孝行にしてもそうだ。
死んでからどんなに立派な葬儀をしようが墓を立てようが手遅れだ。

そう、何かをするならそれは相手やあなたが生きている間になすべきだ

少なくとも私は全財産(残っていればだが)と保険、年金保険は全て妻に既に伝えているし、
葬儀もしなくて良いとも伝えてある。

縁起が悪い話だと誰かが言うだろうがそんな事はない。
そうやって黙して語らせない文化を人々は作り上げてきた。

本来は、その後を生きていく、生きている人が大切なのだから。
少なくとも私はその後を辛い人生を歩むような事をさせたくないから。

そう、この極端な例が「心中」だろう。
馬鹿げている。やはり生きていく事こそが大切なのに。



追伸
これはイジメの論理とよく似ている。
イジメられた側は「先生に言う」「親に言う」という事が「卑怯者」といういわれの無い暗黙の文化があるから彼らは語らない。
つまり、イジメル側はこういう「卑怯者!、先生にちくったな!」と。

本来は「卑怯者」でも何でもない。
声を大にして告発すべきなのだが、、、。
結局はこういった問題にには人の心に奇妙な、そして逆らう事を悪とする論理が植えつけられてしまうからだろう。