目耳鼻口両手両足

目耳鼻口両手両足があれば十分だよ。それがあればなんだって出来る。
それ以上何を望むのか?。
あんたにもあるだろ?
 
これは私の母の口癖だった。
 
今日、帰り道で子供を躾ける声で似たような言葉を聞いてハッとした。
そういえば母はよくそう言っていたし、どんな事でも臆する事無くチャレンジしていた。
今でも私には真似できない。
 
いい言葉だと思う。
 
ただ文面だけを受け止めると差別表現だ、という下らない揚げ足をとる連中も居るから昨今は注意が必要だ。
と、いうのも世の中には目が見えない、足が無い、手が無いといった障害を持つ人も居る。

そう、そういえば五体満足という言葉を差別用語だ、といって噛み付いてくる連中が世の中には居る。
決してそういう意味では無いが彼らが逆にそういう意味を言葉に付随させてしまったと言ってもいいだろう。
 
しかし、ある意味的を得ているのかも知れないと思うこともある。
人には出来ないが自分に出来る事である意味存在感と安心感を得ている点は否めない。
だから自分だけ出来ない事に苛立ちを覚えるのだろう。
 
往々にして出来ない事への劣等感を客観的に認知する事を忘れがちだ。
著者は忘れたが次のような話を思い出す。
ある夫婦の話だが盲目の妻を持つ夫が普段は妻が盲目である事を日常に埋没して忘れてしまっていたある日
ある事をしてみるのだが、、、
それは妻が居ないある晩に電気を消して目をつぶって夕食してみる。
そのとき妻は毎日このような世界で生きているのかとあらためて思う。
そんなような話だった。

結局、人々の営みの中での安息間と結束力は差別から得られているのかも知れない。
逆にそれがそうでない人たちへの優しさに向けるべきものだろうが
それが虐待やイジメに繋がる事は悲しい、もちろんこれもいじめる側で考えれば結束力だ。
そういった安息間と結束力を得るために人は差別という区別をしてきたのかも知れない。
それはそれで良いのかも知れないがその余裕を優しさに変えるという力を失ってはならないと思う。