普通で良いよ

「普通で良いよ」。この言葉はもしかすると死語かもしれない。そう思うことがある。
頭の良い(っていうかそう見せたがる)人は何故かこの傾向がある。
例えば
「普通で良いよ」と言えば
「普通ってどれくらい?」
ここまでなならまだ可愛い。
「ちゃんと数値で言ってくれ!!」
ここまでくると話を続ける気がなくなってしまうのだ。なんて言うのだろうか「天才ばか」?

「普通」っていうのは実は相当高度な言葉なのかもしれない。それは周囲の状況や前後関係等によって様々に定量化される。
物理学の言葉で言えばそれは「場」という概念に通じるものかもしれない。
「普通」という「場」ψ(x,y,z,t)なのだ。あるとき(x0,y0,z0,t0)は A = ψ(x0,y0,z0,t0)であり、またある時(x1,y1,z1,t1)は B = ψ(x1,y1,z1,t1)である。

ある真夏の暑い日にマラソンでゴールした人に冷たい水を。
「紙コップ一杯」が普通?それとも「バケツ一杯」が普通?
冷たい水の入った水筒かペットボトルを渡して上げたいね。「え?何?」
「なんでそんな事言えるんだ?」
「相手がちゃんとこれだけ飲みたいって言わないと正確な量は分からないだろう」

付き合いの長い恋人や肉親なら私は分かると思う。その時の天候や本人の体調によって量は変わるだろうし水の温度も変わるだろう。でもちゃんと「普通」の量を知ってくれている。

薬を飲むのに「スポイト一滴」?それとも「バケツ一杯」
まずは「コップ一杯」くらいじゃないかな。
「まったぁー!!」
「俺は水無しで薬は飲む」あるいは「俺はコップ一杯じゃ飲めねいね」
こんな人も居るだろうけど、それはそれで良い、全然良い、ちゃんとそれを君の「普通」だって事を理解する人もいるだろう。でも私はそんな時「普通に」を諦めてこう言う。
「ちゃんと何cc欲しいって数値で言ってくれればそれだけの水を持ってくるよ」って。