Note210 コンプトン散乱計算(10日目)

光子の偏極についても観測しない場合、光子のスピンに関して入射光子の偏極について平均して散乱光子の偏極について和をとった平均和に関するクライン・仁科の公式も考えて見る。光子の運動量と偏極ベクトルの関係からθを光子の散乱角度とすると
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と一般的に書いてみると
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として散乱光子の偏極ベクトルが表現できる。
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クライン・仁科の公式
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に対して入射光子の偏極ベクトルの平均,および散乱光子の偏極ベクトルの和をとったものに用いれば偏極ベクトルの部分は1/2倍(平均)
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で他の部分は2倍される。従って
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ワインバーグ・場の量子論2」p102(8.7.41)

この公式はQEDの最初の成果という事らしい。なるほど確かにコンプトン散乱を計算せずにQEDを語るべからずという指摘は的を得ていたわけだ。
もちろんこの公式の正当性はガンマ線吸収の実験等からも実証されている。そしてこの公式1928年にオスカル・クライン仁科芳雄が共同で導いたわけだが、仁科はそれ以前(1927年)にはハンブルグ大学でW.パウリ教授のもとでラビとX線吸収の計算を行っていた訳だからこの変の事情には精通していたのだろう。さらに当時の時代背景からマイナス・エネルギー解が存在するという意味ではディラック方程式も疑われていたような時期だっただろうからそういう意味ではQEDの正しさの実証に一役買っている事は間違いないだろう。
ちなみに仁科がこの公式を導くのに半年近い時間を要したそうだ。もちろん何度も間違いを犯した事もその一因であったようだが、今ではすっかり計算方法も確立されこんなシロートの私でも公式を駆使して行けば10日でやれるわけだから技術の進歩は凄い。多分、現役の学生さんなら数時間、多くても2日程度で導出できてしまうだろう。


仁科 芳雄は「日本の現代物理学の父」とも呼ばれている。量子力学への貢献は大きいと言えるだろう。ただ、核分裂という現象が発見された早2年後の1940年には原子爆弾の検討を行い軍に話をしている。そして原子爆弾の開発に進んだ(ニ号研究)のは残念だ。また広島に原爆が投下された時、それが原子爆弾である事をいち早く突き止め、日本政府に報告したのも仁科 芳雄だったと言われている。もちろん日本政府がそれが原子爆弾だった事を知って恐怖した事は想像に難く無いだろう。その後、日本はポツダム宣言を受諾して終戦を迎えた。何とも皮肉な話だ。そして1951年1月10日にこの世を去った。

戦前はX線等の研究を行い、戦後は原子爆弾の開発と広島での調査、これらが原因で癌で他界したというのもまた皮肉な話だ。

歴史に翻弄された科学者の一人だったのだろうと思う。