薄れゆく、、、、
正直言ってまだショックから立ち直っていないのかも知れない。
ふと、思うと辛く悲しみが襲ってくる。
ふと、思うと辛く悲しみが襲ってくる。
しかし、時間や月日は時として残酷な物だ。
もう、誰も居ないのに家に帰ると「ただいま」、家を出る時は「行って来ます」と、つい言わずには居られなかった。しかし、最近はそれも無くなりつつある。
もう、誰も居ないのに家に帰ると「ただいま」、家を出る時は「行って来ます」と、つい言わずには居られなかった。しかし、最近はそれも無くなりつつある。
悲しい気持ちも次第に薄れ、思い出がふとよぎる程度だ。
私と同世代で両親を亡くした人はそれほど多くないと思うと「なんで?」と意味不明な自問自答をしてしまう。
私と同世代で両親を亡くした人はそれほど多くないと思うと「なんで?」と意味不明な自問自答をしてしまう。
あれほどショックだった事も次第に過去の事になって行く。
そう、どんな辛い事も長い時間の中では「瞬きの一瞬」の出来事とさして変わりない。
何年かしたら「そんな事もあった」という思い出になっている。
何年かしたら「そんな事もあった」という思い出になっている。
人は長い人生の中で辛い場面に出くわす。
しかし、それが死ぬまで続く事は無いといって良い。
1年後、2年後、10年後の自分を想像する事だ。
きっと他愛も無い事に悩んでいる事に気がつくだろう。
しかし、それが死ぬまで続く事は無いといって良い。
1年後、2年後、10年後の自分を想像する事だ。
きっと他愛も無い事に悩んでいる事に気がつくだろう。
人は良く出来たものだ。「忘れる」という機能をみんな平等に与えられている。
素晴らしい事だ。
素晴らしい事だ。
しかし、それを得るという事で忘れてはならない事もある。
それは「幸せなひと時」ですら無常にも過去の思い出と化してしまう魔法だという事だ。
それは「幸せなひと時」ですら無常にも過去の思い出と化してしまう魔法だという事だ。
それを拒否する事も許されない。
しかし、それは我々に立ち止まるなというメッセージなのかも知れない。
しかし、それは我々に立ち止まるなというメッセージなのかも知れない。
次の幸せを得るために辛い事を一つまた背負えと。
表裏一体。それが人生だ。
表裏一体。それが人生だ。
お互いに助け合い、山頂を目指し、ただひたすら歩む登山者のように。
私は今、何合目なんだろう。
別ルートから挑んだ登山者が私と合流し供に山頂を目指し歩き始めた。
彼女もまた想像を超える苦難を乗り越えここに辿りついた。
彼女もまた想像を超える苦難を乗り越えここに辿りついた。
きっと、みんなそうなのだと思う。
そう、「立ち止まるな」という事を忘れなければだ。
そう、「立ち止まるな」という事を忘れなければだ。