夢を見て蝶となる

なぜか今日は曇っていて寒かった。結局、立てこもって寝てました。

さて、表題の話ですが荘子(斉物論篇)の「胡蝶の夢」というやつです。
夢の話しとしては有名な寓話だろうか。

要約すればこんな感じだろうか

ある男(荘周)が蝶になる夢を見る。蝶として生きている。
しかし、夢から覚めたとき、はたして自分が夢で蝶になっていたのか?
いや、もしかすると自分は蝶が見ている夢なのか?
どちらなのか分からなくなった。
という話だ。昔の人は壮大な想像を巡らしていたんですね。

その反面、奥深い話だとも思う。夢を見て怖いとか感動したとかあると思います。その時、夢で良かったとか夢と分かっていたらもっと色々楽しめたのにって思いますよね。
夢の中ではそれが現実だと思うから怖かったりする。だから夢から覚めて「あー夢で良かったと」。
荘子はもう一歩踏み込んで考えたわけですね。

荘周が蝶となっている時、蝶として楽しんでいますが夢の中では荘周が蝶に変身したわけではなく蝶として生まれて蝶として生きてます。夢から覚めて「あー人間でよかった」と思う。

でもはたしてそうだろうか?荘子は考えたわけです。
夢の中では自分が蝶だったことは疑いもしなかった。では「今、自分が人である事を疑いもしない」というのは果たして現実だろうか?。

もしかするとこれも何かの夢で「はっ」と夢から覚めるのでは無いだろうか?と。

もしかすると「あなたのこの現実は」誰かが見ている夢で、そうと気が付かずに長い人生を送っているように思っているだけかも知れません。
そして夢から覚めたとき「その誰か」が、こうため息をつくかも知れません。

「あー夢で良かった」あるいは「良い夢だった」と。

これを寓話と考えるかそこに人生観を読み取るかはあなたの自由。

でも、私はこう思いたい。

自分が自分である事を感じ、自分が生きた人生を振り返るときが来たとき「夢のようだった」な、と思える生き方を出来れば良いと思う。

その時は多分「あー夢で良かった」、「良い夢だった」、どちらでも幸せだったと思えるだろうと思うのです。