死んじゃいけないのだろうか

死んじゃいけないのだろうか
 
馬鹿げた疑問だ、、、そう思う。
疑問に思う事をも否定するのが正しいような気がする。
しかし、きっとこう思う。
私はなぜ、、、生きているんだろう
なんのために生きているんだろう」と。
 
人は生まれて死んでゆくがそのサイクルは複雑な感情と心を持った時から何万年も繰り返されてきた事だ。

ネアンデルタール人の人骨からは何種類もの花粉が多く見つかっている。
これは死者に花を手向けた証でもある。
そんな遠い過去から人間は死というものに対して悲しみを覚え、死者を送る事をやっていたのだろう。
おそらくその時から冒頭の疑問はあったのかもしれない。
 
先日、映画「コンタクト」(DVD)を見ていたのだがその一つのテーマに「孤独感」がある。
両親を失った女性主人公の孤独感と人類の孤独感を微妙にリンクしている。
地球外知的生命の存在とその認知から人類は孤独感から開放されると。
 
この広大な宇宙から見れば塵よりも小さい、見えないほど小さい地球がポツンと確かに存在してそこにさらに小さな存在として我々が居る。
そこで営まれる生死などその広大な宇宙から見れば語るだけの価値も無い事だろう。
 
それはまるで目の前の流れる川の流れのようだ。
ただ流れているだけで私には関係ないしどうでも良い。
そこの「水分子」達に何らかの営みがあろうと、、、。
 
結局は「考える事」にはなんの価値も意味も本当は無いのかも知れない。
ただただ自然の法則によって水が流れるようにこの営みはただただ存在するだけだろう。

誰かが死んだとしてもそれは取るに足らない事だ。
だが、なぜかこの事を認めることが出来ない。
それは一重に人間が純粋さを失った事に起因する。
「水」は純粋だ。サメやワニも。
あなたの腕を食いちぎろうが隣のワニがハンドバックにされようがフカヒレスープにされようがワニやサメ達は
なんとも思わない。悲しみも悩みも無いほどに純粋だ。
 
我々に人間には厄介で面倒な機能を設定されてしまっているのだろうか?
 
そうこうしているうちにお風呂が沸いたのでそろそろ入ろうかと考える。
このブログを呼んでいるあなたもパソコンの電源を切って見たかったTV番組を、、、。
やはり、、、取るに足らない事、、、。
 
だから私はこう思う。
考えるな」、「意味を追求するな」なぜなら、、、「今生きている事実だけが真実
そしてただただ「生きれるだけ生きろ」と。
そして意味を考えた瞬間に生き抜くことへのブレーキでしかないのだと。
 
ホームに入った電車から降りる人々、電車の窓から彼らが家路に急ぎ改札に向かう様子をただボーっと意味も無く眺める。そう意味なんて無い。
毎日の出来事。
取るに足らないし、記憶にも残らないその風景。
 
人々の流れはまるで川の流れのようだった。