観測者が観測した瞬間に(Copenhagen Interpretation)

電子なのど粒子は各種実験結果から今のところ点状だされる。つまり粒子が空間的に一点に存在していると考えられている。一方、量子力学はΨで表される状態の和(重ね合わせ)で表される。それがどんな状態なのかは知る由も無いのだけれどもあえて言えば位置と運動量が同時に空間的に広がりを持つような存在として表現される。そして量子力学が予測する物理量の値は実験と一致している。

何となく、だけれども相反する事のように思える。この辺に量子力学の「解釈」問題が見えている。

そこで普通は「コペンハーゲン解釈」によってこの溝を埋めている。

対象の観測前の状態は重ね合わせというような原理的に認知する事が不可能な状態だから、観測の時点では一点に収束している。という解釈だ。
※そしてどの状態に収束のするかは確率解釈。


ところがコペンハーゲン解釈をこう言い換えることも出来る。

観測者が観測した瞬間に1点に収束する。

と、なんか気持ち悪い解釈が出来上がってしまいます。もちろん観測者が観測した瞬間に1点に収束するというのはコペンハーゲン解釈に含まれるだろうけれどもこのような限定的な解釈をすると
まるで人間が観測した瞬間だけ1点に収束する
というような意味になってしまいます。気持ち悪いと言ったのはまさにこの点なんです。


リチャード・トンプソンが旨い表現をしています。
邪魔が入るとその瞬間に1点に収束する。
観測という代わりに「邪魔」という言葉を使った点は非常に新鮮に思えました。おそらく「量子状態でいる事を邪魔する」=「量子状態が壊れる」という意味で使ったのだと思います。つまり重ね合わせ状態はそのままでいられないような「邪魔」によって1点に収束するという言い方も出来ます。

旨い言葉と言ったのは例えば外界からの相互作用によっても量子状態は壊れて収束するだろうから相互作用によるノイズのような事も「邪魔」の範疇に入るので「人間が観測したから」といったような人間の存在とか意識と言ったような気持ち悪さからは開放されるような気がします。

※とは言うもの所詮は「解釈」の問題なので選択は今のところ自由なので気分の問題なんだろうね。少なくともこれから量子力学を学ぼうとする場合は「解釈」の問題に深入りしないほうが得策かと思います。

※でも考えてしまう時があります。私の思考が「重ね合わせ状態」なのかも知れません。