湯川秀樹と「知魚楽」に思う事

ノーベル物理学賞受賞者の湯川秀樹さんの随筆で「知魚楽」につて書かれたものがあります。確か、当時の素粒子論との絡みで書かれていた気がしますが詳細は忘れました。湯川秀樹さんは実際素粒子に関する国際会議で「知魚楽」を英訳して披露したそうです。

知魚楽」とは荘子の一遍の秋水篇七章で
荘子と恵子が川に遊びに行った時です。
荘子「魚が泳いでいるね。これこそ魚の楽しみだ。」
恵子「君は魚じゃないだろ?何で魚が楽しいなんていう事が分かるんだ。」
荘子「君は僕じゃない。何故、僕が魚の気持ちが分からないって言えるんだ。」
恵子「(確かに)僕は君でじゃない。だから君が魚の気持ちをわかっているかなんてわからないさ。
   だから、君も魚じゃないんだから魚の気持ちはわからないだろ。」
荘子「最初に立ち返って考えよう。最初、君が僕には魚の気持ちが分からないと言ったって言う事は、
   その事を君は知っていたという事だ、だから僕も魚の楽しみは知っていたんだ。」
湯川秀樹さんは確か今の物理学は「知魚楽」なんだ、といったような事書かれていたと思います。つまり、魚の楽しみ(楽しんでいる様)を知ろうとしているのだと。

、、、中々奥が深いですね。

もう少しわかりやすく書いてみましょう。(これはある意味私の理解による訳ですが)
つまり、現在の物理学はこの自然に対して「あなたの法則・原理はxxxxなんですね」と問うような状況で「そうだそれは正解だ」と決して答えてくれない。だから

物理学者 「これxxxが自然の法則・原理だよ」
誰かが  「なんで君にそんな事が分かるんだ?、君は自然の声が聞けるのか?」
物理学者 「君は僕じゃない、なんで僕が自然の真の法則・原理を理解していないなんて言えるのか?」
、、、、(以下略)

おそらくだけどこんな感じの事を云いたかったんじゃないだろうか?

結局、考えてアイデアを出してそれが自然を解き明かす最終回答かどうかは実験という手段で自然にジャッジしてもらうしかない。そしてアイデアを思案している段階ではむしろ哲学や宗教的な要素を多分に含まれているかも知れない。だた云えるのはどんなアイデアだろうが実験を通した自然からのジャッジは容赦無し!!、という現実がある。だから長年に渡って支持される法則・原理でありつずけるのは困難な事かもしれません。それでも科学者(物理学者)は真理の探究者として答えを求め続けると思います。その道は険しい道かもしれません、何故ならゴールは見えないかも知れないからです。しかし、多くの物理学者は最終的なゴールがあると信じているのも確かなようです。それが究極理論とか最終理論とか呼ばれるものです。もしかすると見つかるかもしれません。あえて正確に言うなら見つかるというのは少なくとも永遠とも思える長い期間支持される法則・原理の発見とも言えます。

結局のところその回答も「知魚楽」に通ずるものかもしれません。