少年の日

今日、会社に行く途中ひらひらと舞う1頭のモンシロチョウを見た。季節外れだ。
おそらくこの寒さでは数日と持たないだろう。
居るはずの無い仲間を求めてか、その姿をしばし追っていたがやがて見えなくなった。

通勤電車に乗ると1時間ほど時間がある。ふと窓の外を眺め、あの蝶はどうしたのだろうかと。

気が付くと私はあの少年の頃の真夏に立っていた。
まばゆい光と心地よい南風、澄んだ青空と怖いほどに大きな入道雲
一人の少年が虫取り網を構えて蝶やトンボを取っていた。庭に立っているだけで蝶やトンボが取れたあの夏の日。庭の向こう側が畑だった事もあるだろう。いわゆるド田舎だ。

その少年は私だった。

子供たちの声が聞こえてくる。
約束したのでも待ち合わせした訳でもないがそうやって集まっては山や川に遊びに行った。
自宅から少し行くと田んぼがあった。
あぜ道を歩いていくと足元からシオカラトンボが右や左にパーッ、パーッとまるで子供たちの歩きにリズムを合わせているかのようだった。

小川にはタナゴやメダカも居た。
ある時、沢山居る場所を僕たちは見つけた。

秘密の場所だぞ」。そう言って僕たちは約束した。

少年にとってこの約束は無いに等しかった。ある日、行ってみると友達が別の友達と来ていた。

いい所を見つけたんだ
秘密だぞ、いいな、誰にも言うなよ

なんていう会話が彼らとの間に交わされたに違いない。
やがて、みんなが知っている「誰にも言えない秘密が」蔓延していた。バカな少年たちだった。

水田に目をやるとギンヤンマが飛んでいた。大きく優雅だがその飛行はとてつもなく優秀で子供たちの網にかかる相手では無かった。

ヤツを目にした少年たちは既に勝負する決意だった。今日こそはと。

ギンヤンマは何時も単独で、ある一定の縄張りを周回する。経験で知っていた。しかもチャンスは一度
一旦空振りすればその縄張りを放棄して少年たちをあざ笑うかのようにどこかへ行ってしまう。

少年たちは身を屈め様子を伺った、正面に来るまでの時間を何度もヤツを見送って計った。
cat_falcon!!次だぞ」K君は小声で言った。
分かってる

次第に接近してきた。まもなく虫取り網の射程だ。息詰まる少年たちがそこにいた。
いよいよ勝負だ。
一気に虫取り網を振る少年。
しかしギンヤンマはまるで振られたバットをかわす変化球、ホークボールのように瞬時に、、、
勝負は付いた。僕たちの負けだった。

しかし時を経づして再びチャンスは巡ってきた。
今日は僕一人だった。見守る仲間は居ない。一対一の勝負だった。
間合いを計り静寂の中で少年は虫取り網をギュッと握り締めた。
今度こそは。一度目はやり過ごした。
悠然とその巨体は捕まえられるなら捕まえてみろと言わんばかりに飛んでいた。
今度はどうだろう急旋回するか、いや真っ直ぐか。
チャンスは一度!!一気に網を振る。勝負あり!!。勝った!!と思った。

しかし、勝ったとは言えなかった。ギンヤンマは振られる網を瞬時にかわしていたが少年が少し早かった。ギンヤンマは網の淵で叩かれ死んでいた。
僕は死んだギンヤンマを手にとってしばらく眺めるだけだった。

始めて見る大きなトンボに見とれていた。
まるでエメラルドのような美しいグリーンの体、尾の付け根はまるで澄んだ青空のように美しくプラチナのような銀色のグラデーションは飛行の王者を物語っていた。

数日後、再びチャンスは巡った。
今日は友達3人が一緒だった。決戦の場はあの田んぼだった。
今日こそは俺は勝つぞ!!」。
絶対だぞ!!
そんな心の声が少年たちの胸の奥にはあった。

少年たちは息を潜めお互いの鼓動が聞こえるのではないかと思う程真剣な目つきだった。
少年は一瞬のタイミングを逃さず網を振った。

バサバサバサと網の中で暴れるギンヤンマが居た。
少年たちはまるで夕立が去った後の晴天のようにはしゃいだ。
わーやった、やった
つに捕まえたー」。

気がつくと少年たちの声はやがて薄れ小さな影が消えていくように聞こえなくなった。

私は我に帰った。そこには田園も無ければ少年たちの無邪気な騒ぎ声も無かった。

広い駐車場とアパートと建売住宅が目の前には広がっていた。何もかもが無くなっていた。

コートの襟を立て北風に吹かれる手をポケットに入れて私は歩き始めた

ふと後ろで少年たちの声が聞こえた気がした。
それはきっと風の音だったのだろう。振り返る事も無かった。

その瞬間私は現実に引き戻された。
電車が駅に着くとなにも変化無くいつもと同じ通勤の風景がそこにある。


私たちはもしかすると失ってはならない本当に大事なものを失ったのかもしれない。
本当になにも変化の無い日常だったのだろうか?そんな気がした。