Memo4 Feynman Ruleの生い立ち・ファインマン図登場

第二回の会議はペンシルバニア州で行われた。
Schwingerが行った難しい計算は数百ページにも及んだというから凄い。当人のSchwingerも「何度も間違えた」と告白している。膨大な計算結果の最大の成果は全ての無限大を治療する方法を示した事だった。そして計算結果と実験値との一致は驚愕すべき一致度だった。Schwingerが量子電磁力学を完全に治癒し、量子電磁力学の驚異的な信頼度を示していた。

Niels Henrik David BohrとOppenheimerはこの成果を絶賛したという。しかし、問題もあった。それはSchwingerが行った困難な計算はSchwingerしか出来ないのではないかと思われるほどだった。Schwingerの発表の次がFeynmanだった。そしてFeynman自身も別の方法を提案した。これがまさに今日Feynman図とよばれる図を使った計算だったんですね。Feynmanは絵を書いて計算ができる事を説明したがこの成果を絶賛する者はいなかった。さらにBohrは激怒したといわれている。

会議を終えてからさすがのFeynmanもかなり落ち込んだらしい。
しかし、図を使ったFeynmanの計算方法は、ばかばかしいようだが首尾一貫していたので徐々にその便利さは知られ、あっという間に普及してしまった。

ところが話はまだこれだけでは終わらない。Oppenheimerがペンシルバニア州での第二回の会議から戻ると一つの論文が送られてきていた。それこそSchwinger、Feynmanとは別の計算方法、3つ目の方法を示した論文だった。Schwinger、Feynmanとは全く異なる第三の方法とも言うべき方法を見つけた論文の著者は朝永振一郎だった。
戦争で廃墟とも言える荒廃した日本から送られてきた論文はOppenheimerらを驚かせた。後にOppenheimerは朝永をプリンストン高等研究所に招待している。

後にFreeman John Dysonがこれら3つの方法は完全に等価だという数学的証明を行ったためどの方法も理論的には優劣が無いという事がはっきりした。
そして、1965年、Schwinger、Feynman、朝永の3名はこの成果でノーベル賞を受賞した。
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