Memo92 発散の困難と繰り込み

Feynman図を目標にQEDを摘み食いするつもりがシロートにしては結構マジに独学してしまった(笑)。
でもって勢いあまって繰り込み理論まで首を突っ込んでしまった。

まあ、探究心というか好奇心なんですが一応納得するとこまで来たという感じです。ただ場の量子論はそんな生易しい学問でも無いわけで(思い知らされた感も否めない)。
※かなり表面的なことしかやってませんから。

エイスチン(J.R.Aitchison)とヘイ(A.J.G.Hey)がこう書いています。

、、、略、Feynman規則に到達すると言うのははなはだ長い道程である。その途上で、複雑な定式化の中に物理をたやすく見失ってしまう。この道の険しさに耐え切れず、多くの勇ましい真理の探究者が挫折してきた、、、略、、、

一方、ワインバーグ
物理学者は、、、中略、、、ディラック方程式を解くやり方を幼稚園で教わる。
なので私が今までやってきた事は専門家から見れば幼稚園以下と言う事で、、、(泣)。まあその道の人になろうなんて思っていないので別に良いけど。

さて、今日はその物理学者の「発散の困難と繰り込み」への歴史を少し見て行きたいと思います。

この問題のサクセスストーリーについては第4話で簡単に触れました。

当時の大問題でもあった量子電磁気力学(QED)の発散の問題は「発散の困難」と呼ばれています。今日は以前触れなかった部分について見てみたいと思います。というのもこの問題の解決で朝永振一郎ノーベル賞を受賞するのですがちょっとした幸運もあったようです。

さて、QEDの発散の困難の解消については幾つか提出されていました。その一グループでもある坂田昌一らは質量の発散は解消できると主張していましたが朝永のグループこれを検証した結果やはり無限大は依然として残ってしまうという論文を出したのです。

ところが、天才もミスをするのです。実は計算を担当した木庭二郎がS.M.Dankoffが提案していた計算を使ったのだが計算ミスをしていました。坂田昌一らの主張は実際は正しかったのです。このことで木庭二郎は頭を剃ってしまったと言われています。当然、朝永は訂正の論文を出しましたが既に手遅れだったようです。

さて、朝永はすぐに残りの無限大についても検討を始めていました。まず行ったのはS.M.Dankoffの計算です。ところが何とDankoff自身も計算をミスっていた事を朝永のグループは見つけたのです。しかも実は正しい計算を行うと依然として残っていた他の無限大も解消されていたのです。一方海外ではどうだったのか?この点についてはFeynman Rureの生い立ち・量子電磁力学の特効薬探しで書いた通りです。

次回は当時の戦後の日本での状況を見てみたいと思います。