自殺と一滴の水

昨日、自殺に関して私の思いというか、、書いてみた。何故そんな事を書いたのか?

この事に関してはちょっとした背景がある。
以前、私の同僚に自殺願望の男がいた。彼は何事も後ろ向きでいつも死にたいといっていた。
ある日、私は

辛い事もあるかも知れないがきっと良い事だってあるさ」 と声をかけた。

その時の彼の反応で私はハッと思ってしまった。彼は

そんな事言う人に限って僕の事なんて真剣に考えてはいないんですよ」と。

正直言ってそれは事実だと気がついて息が詰まった覚えがある。
しかし、しばらくして「それで良い」と思った。逆に彼が如何に甘えているかが分かった。

先日の無理心中の話は広くニュースで流れて我々に衝撃を与えた思う。
しかし、その翌日だ。映画館は?ディズニーランドは?、その他の楽しい場所は?
多分、何も変わらないだろう。予定があっても行かないのは近親者や友人くらいだろう。これが現実だ

さて、彼の言葉を思い出してみると、彼は何を求めたのだろう?
現実に背を向けた甘えとしか言えない。(と思う)。
誰かに真剣に思って欲しい」という独りよがりだ。

先日、「本当に何も出来ないのか?」といった事を言ったけど。
これと関連してもちょっとしたきっかけがある。

以前、上司にある事を指示された。少し考えて「無理」と返事をした。
その時その上司の言った一言は少しだけ私を変えることになった。
なんで、無理、出来ない、という返事なんだ?
お前は、どうしたら出来るのか?、何をしたら良いのか?を何故考えない!!
といって叱られた。そして、

お前の答えには0(No)か1(Yes)しか無いのか!!」と、

はっとした。
考え方の違いだと気がついた。これが「前向き」という意味だと恥ずかしいけどその時にハッきりと理解し気がつかされた。

そうか私は出来る出来ない0か1しか答えを持っていなかったのか、と気がついた。

どうしらた1になるのか?、1に近づくために0.00001でも良い、そんな解答も「前向きだ」。

自ら死を選ぶ彼らには「生きる(苦痛?)」1と「死」0の扉しか見えていない。

決してそんな事は無い、360度、広大な人生世界の扉は0から1まで無数にあるはずだ。


昨日私が言いたかった事は、、、

一滴の水も飲めませんでしたか?一滴の水を得る方法は本当に無かったのですか?

と書きました。意味不明だったかもしれませんがもう分かりますね。